コラム

[2011/09/05] 第38回 わかった人は、手を挙げて

小学校や中学校の授業の際に、先生が黒板に問題を書き終えると「では、この問題の答えがわかった人は、手を挙げて」と言われることに、とても抵抗があった。

教室と黒板

先生がそう発すると手を挙げることに皆が先を競って争ったし、早ければ早いほど評価されると思い込み、いまだ生半可な答えのままだとしても、手を挙げないよりも挙げることの方が良いことなのだと思って挙手しているように見えたものだ。

手を挙げることでわかったと意思表示をするとともに、周りに対して自己顕示する。そして、自分は答えが分かった偉い人間だと、先生から評価してもらうために手を挙げる、そう感じていた。問題を考える過程ではなく結果となる答えが大切であり、答えがわかった人が偉くてわからない人は失格であるかのような気分になった。

ある日、先生が少し難しいかもしれないと言って教科書以外の問題(地球は地軸を中心に西から東へ自転する)を黒板へ書き、いつものように答えがわかる人は手を挙げてと言った。ぼそっとかすかな小さな声で答えを口にしてしまったところ、それを聞いた隣の女の子が手を挙げればいいのにと言ってきた。「別に、いいよ」と手を挙げることを拒み続け、結局は誰一人として手が挙がらなかった。その答えが正解だったために、隣の女の子はとても残念がって後悔していた。手を挙げていれば良かったのにと、もっと私が背中を押してあげていれば良かったんだと。

先生の解説を聞いて、自分自身の考え方(答えではない)は正しかったので満足だった、良かったと。自分はとても稀有で、冷めた子供だったのかもしれない。

先生は教える人

わかったことを、周りの仲間や先生に誇示するような行動の必要性がとても理解できなかった。学校は学ぶ場所であり、先生から与えられた問題(質問)を自分が理解できるか否かではないのだろうか。自分自身が理解したのならそれで良いのではないのか、そう考えていた。むしろ、先生に評価されることが目的のようなふるまいや行動を強要されることに、嫌悪感さえ覚えていた。先生が自分をどう思うかなどは、興味がなかったし、自分がどの程度の理解度なのかは、最終的には試験などの結果で評価されるはずなのにと。子供のころから他人の評価を気にしない傾向にあったのだと思うが、どうやら先生は教える人であり、評価する人ではないと考えていたようだ。とても可愛げのない、難しい子供だったのだとつくづく思う。

評価は誰がするのか

褒められることは嬉しいことだが、自分の地位やランクが決まる訳ではない。自分自身の評価は最終的には自分で明らかにし、それを真摯に受け止める覚悟が必要だと思う。自分を甘やかしたことで、誰かに厳しい評価をされるかもしれないが、逆にさらに甘い評価をされることもあるのだから、そんなことで一喜一憂したり人に依存している限り、通用する場所(人)と通用しない場所(人)があると言うことになる。絶対評価をできるのは、あくまでも自分しかいないのだ。

きっと先生は、挙手をさせることで自分の教え方が良いのか悪いのか、子供たちの理解度を知りたかったのだと思う。そんな先生を困らせたことに少しだけ反省しつつ、「わかった人は、手を挙げて」ではなく「この問題について、どう考えましたか?」と聞いて欲しかったな。 <s.o>


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