コラム

[2012/01/04] 第42回 学ぶことの大切さ

大学ノート

子供の頃、学校の宿題や新聞などを読んでわからない字があった時に、「この字、何て読むの?」と両親に聞くと、必ず「自分で調べてみたの? 辞書は見たの?」という言葉が返ってきた。

ある日どうしてもわからないと少し食い下がってみた。ならば辞書を持ってきなさいと言われ、答えを教えてくれるのかと思って急いで持っていった。すると部首(へん、つくり)や画数で調べる方法などを一通り説明したと思ったら、最後の言葉は「じゃあ、自分でやって(調べて)みなさい」だった。

わからなくて困っている時に、自分で調べたり考えていたことを認めてくれた時は、その問題の解き方(考え方)や求め方を一緒に考えてくれたが、自分で調べたり苦労もせずにいきなり質問しても、一貫して両親は答えを教えてはくれなかった。

あなたの宿題

そんな時、母親から聞いた答え(一緒に考えた答え)を学校で発表したところ、間違っていたことがあった。家に帰って母親にそう伝えると、「あら、そうだったの、でもあの時あなたと一緒に考えて、決めた答えだったよね」と、真顔で返された。そんな時には決まって、「これはあなたの宿題だよ、私の宿題じゃないんだよ」と言われた。

自分ではわからないから相手に聞いた、その答えが間違っていたらその結果はあなた自身の責任だと言われる。とても理不尽なことを言われた気分になって、この人(母親)は何を言っているんだろうと、初めはまったく理解できなかった。あなた自身のことなのだから、あなた自身が考えなければならない。あなたのことは、最後まであなたの責任でしなければならないのだから。こんなことを得々と言い聞かされた。

自分で考えても誰かに聞いても、答えが間違っていたら結局は自分が怒られたり恥をかいたりする。そう考えたら誰かに答えを聞いて鵜呑みにしていたことがとても馬鹿らしくなり、他人に答えを聞くこと自体に興味が湧かなくなった。ならば、自分で一生懸命に考えたり悩んだりしていた方が気持ちも楽であり、そう割り切って考えると、なぜか母の言いたいことも少しだけ理解できた。

学ぶ(Learn)

教育こそが国の基本との信念の下、北欧諸国が教育に注いできた情熱には多大なものがある。北欧の四か国すべてが世界の国際競争力ベスト20位に入り、その中のデンマークの教育施策はとても興味深い。

『すべての子どもに学ぶ権利はあるが、学校に答えを教える権利はない』

教えるという前提には、答えがあるということになる。しかし、社会生活の中では必ずしも明確な答えはないのであって、答えがない以上は、『教える(Teach)』という概念を否定するしかない。デンマークでは生徒たちが、自ら『学ぶ(Learn)』ことが教育であり、教える人=先生(Teacher)という概念も成立しないというものである。

求められる姿勢

わが国の学校教育とは、答えを教えることだとの先入観から数多くの数式や方程式を伝え、またそれらを記憶し試験に合格することが生徒としての役目だと『学び』育った多くの人たちが、社会で困惑している。決まった方程式(答えに近似)から答えを見つけることができても、過去の経験や勘などの学んだ結果から答えを考えたり想像しようとする姿勢がないためだ。

両親の姿勢は漢字の読み書きだけに限らず、疑問に思ったことやおかしいと思ったことを質問しても、「あなたはどう思うの?」と必ず自分の意見や考えを求められた。何かを得るためには、それなりに努力が求められる。何かを知るためには、それに対する理解や自分自身の考えが必要になる。両親からは、考えることと学ぶ姿勢、責任と自覚、そのようなことを学んだ。

自らが学ぶことの大切さと、そんな姿勢を一貫して求め続けてくれた両親の姿勢に、ひとりの人間として尊敬と感謝の念に耐えない。 <s.o>


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