コラム

[2012/02/06] 第43回 答えは自分の中にある

手の中の光

昨年は例年になくライブ・コンサートに行った。その数は、多い月で3本、年間で10本にも及んだ。大半のアーチストが、震災後初めての被災地ライブだった。そのライブにかける想いはMCに表れていた。

(観客が被災者であることを考慮し)震災の話題にあえて触れないアーチスト、復興支援を強く訴えるアーチスト、このまま音楽を続けていいのか悩みを打ち明けるアーチスト、自分自身と折り合いをつけるため過去の楽曲をセルフカバーアルバムとして発表したアーチスト、共通しているのは、これまでの自分と向き合い直しているということ。

筆者も、自分自身の生き方、行動、価値観、考え方、在り方など幾度となく自問自答した。震災から11か月が経過したが、当時あれほど考えたことでさえ、忘れつつあることに気付かされた。

今、改めて自分自身を振り返ると、悪しき思考癖があることを認めざるを得ない。我々は、日常生活の大半を、物事を考える時間に費やしている。ひとつひとつの意味を考え、行動することで人は成長する。しかし、これまでの自分を反芻すると、自分の外側に答えを求めようとする傾向にあった。

自分の外側には、実質的に無限の情報が存在する。そのなかから自分に必要なものを見つけ出す能力も確かに重要だ。勘違いしてはいけないことは、自分の外側に答えはないということ。外側に答えがあると疑わず、そこから答えを選択したとしても、それは自分の考えではない。自分の考えを外側の答えに合わせているだけだ。

外側に答えを求める心情は、虚栄心の表れといえる。虚栄心は、自らの価値を下げるだけでなく、存在感も希薄になる。そして最後に空虚感だけが残る。

成果だけを追求するなら、外側に答えを求めても良いのかもしれない。しかし、今はそういう時代ではない。答えに至るプロセスも含め評価される。外側から得た情報は、自分の知識・技術・経験を付加することで、自分の答えとなる。

自分で答えを導く姿勢は、周囲にも良い影響を与える。周囲に対する自分の影響力を実感したとき、人はそこに意味を感じる。意味があるから充足感があり心動かされる。

自分の中に答えを問うとき、心掛けたいことがある。日常生活の中で感じる「違和感」(しっくりこないこと、些細な疑問など)を見過ごさないようにしたい。「違和感」に対して、日頃から小さな努力・工夫・配慮・献身など最善を尽くすことで、大きな信頼を得ることができるのではないか。  <K.G>


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