コラム

[2012/11/05] 第52回 「友人に宛てた手紙」 -欠陥品-

孤独感

人として孤独って感覚は、当たり前のセンスだと思っている。自分のことは、究極には自分しか理解できないから。それに反して相手や周りのことで、理解に苦しむことが多い。その溝や隙間を埋めるために、どこかで折り合いをつけながら、少しの優しさやいたわりを互いに享受しながら生きている。

足跡だけの砂丘

時折、自分の存在が、本当に正しいのかと思うことがある。その答えは、他人が評価することではないと定義している。自分自身で正しく評価し、判断すべきだろうと。すると自問自答し続けるだけで答えは出ないから、それで時折というか、常に孤独感がつきまとっている。

つくづく自分は複雑で難しい人だと、自覚している。だから自分と一緒に居る人や周りの人は、きっと大変なんだろうと。そこで、自分がそんな感じ方をしていることを極力隠したり、匂いを消そうとする。そんなことを、いつも気にしながら生きている。


「誰だって、他人から自分がどう思われているか知りたいものだ。よく思われていたいし、立派で大切な人間の部類に入れて欲しいものだ。でも自分が望むように評価してくれることはほとんどない。人は間違った評価をされるのが当たり前で、それが普通なのだ。だから他人が自分をどう思っているのかなんて、関心を向けてはいけない。そうでないと、本当は嫌われているのに社長だの先生って呼ばれることに、一種の快感や安心を覚えるようになる。」(フリードリヒ・ニーチェ)

楽しむ

楽しむということを、理解できていないのだと思う。楽しいということにいつも満足していない、そんな気もする。純粋に何かを楽しんだりすることがきっとできていないのだと思うし、楽しかったことを記憶しようとする感覚も持ち合わせていない。視点を変えて考えてみれば、ほんの些細(ささい)なことが幸せだったり、いつも楽しいと感じているようにも思える。でもそれが満足なのかとそう自分に問うた時には、「まぁ、楽しいのかなぁ」と、そんな感じになる。

「楽しむ」を、自分だけが満足すると定義できれば、とても気持ちが楽になる。ひとりで自分の自由にしていい時間ならば、それはとても有意義な時間になる。でもそれが本当に楽しい時間なのかと考えると、楽しい時間なの?と疑問になるし、誰かの制約の上で成立してるのかと感じたりもする。そんなひとりで身勝手な時間を過ごすことに、「楽しむ」と定義していいのだろうかと。

例えば、子どもの頃に好きだった友人と、ずっと一緒に居ることはできなかったりする。できることとできないことがある。したいことしたくないけど、でもしなきゃいけないこともある。当たり前のことだけど、自分の思い通りにはいかないことがたくさんある。

「楽しむ」は、自分の都合や身勝手さを、相手や周りの人にどこまで強要していいのか。そんなことをしていいのか、どこまで許せるのか、究極にはそんな自分との葛藤と心の調整弁(バルブ)で成り立っているのだと思う。

欠陥品

自分は何をすれば楽しいのか、定義できない人間なのだと思う。そんな意味からは、欠陥品として生まれてきたのだと思っている。ここまですれば何をすれば満足するのかの答えを持ち合わせていないから、何がしたいのかの答えがない。だから、何をしていても満足しない。何をしていてもこんな程度なのか難しくないんだけどと、満足しない。ずっと永遠に求め続けて、定住先がないまま彷徨(さまよ)っているかのように。

自己満足でも楽しさを見いだせる人は良いなと思う。そんな自分と周りとの調和であったりバランスが良い人には、とても憧れることがある。

きっと自分の満足のために何かを考えても、答えは見つからないのだろうと思った。周りの人の完了基準や定義は、その人なりのものが見えるから。ならば、自分は人のために生きていた方がきっと幸せなんだろうと。そう生きるべきだし、そうしなければ自分の役目が全うされないのだろうと、そう定義した。

相手のためと思っていたら、我慢になる。相手に対して失礼にもなる。だから、それは自分のためだと思うことにしている。それが自分の幸せなんだろうと、究極にはそれが自分のために生きているということなんだと考えている。

自分のそんな気持ちや考えを理解してくれる人は、誰も居ないと感じることがあって。認めてもらいたいという訳ではなく、それを知っていてくれる人がひとりでも居るなら、きっと楽になれる。そんな気持ちが「孤独感」と、表現したくなる。

人間的に、とても未熟で欠陥品なのだと思う。悟っているかのようで、そんな境地にはなかなかなれなくて、いつももがいてる。 <s.o>


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